見てきたような、亀田戦の速報
本日、午後10:10ごろ菊名駅(東急東横線の駅。横浜アリーナのある新横浜駅の隣の駅で、東京方面からアリーナに来た人々は、たいていここで乗り換える。)のホームで試合を見てきた3人連れの男性のひとりから聞きました。
以下、一問一答。
Q.どうでした?
A. 判定で2:1、亀田の勝ち。亀田の試合なんか2度と見ない!
Q.どうして?
A. ダウンさせられるわ、ボコボコうたれるわ、こっちのパンチは効かないし、最後はヨレヨレで、立ってるのもやっとだったのに、勝ったなんて信じられないよ。
Q.やっぱ、これですかね(と、親指と人差し指で輪を作ると)。
A. これの力だと思うよ(と、その人も輪を作った)。
Q.相手は、受け容れますかね?
A. 提訴するんじゃあないの? ま、それも金で黙らせるのかなあ。
帰ってからTBSニュースの映像を見たら、1ラウンドのダウンを除いて
亀田の一方的な試合に見えたけど、
フジテレビのスポルトで見ると、菊名で会った人の言うとおりだった。もっとも、
フジはちょっと意地悪く編集しているんだろうけど。
それにしても、発表の時は客はもう出口に殺到していて、発表と同時にどよめいたというんだから……、ちょっとね。
以下、一問一答。
Q.どうでした?
A. 判定で2:1、亀田の勝ち。亀田の試合なんか2度と見ない!
Q.どうして?
A. ダウンさせられるわ、ボコボコうたれるわ、こっちのパンチは効かないし、最後はヨレヨレで、立ってるのもやっとだったのに、勝ったなんて信じられないよ。
Q.やっぱ、これですかね(と、親指と人差し指で輪を作ると)。
A. これの力だと思うよ(と、その人も輪を作った)。
Q.相手は、受け容れますかね?
A. 提訴するんじゃあないの? ま、それも金で黙らせるのかなあ。
帰ってからTBSニュースの映像を見たら、1ラウンドのダウンを除いて
亀田の一方的な試合に見えたけど、
フジテレビのスポルトで見ると、菊名で会った人の言うとおりだった。もっとも、
フジはちょっと意地悪く編集しているんだろうけど。
それにしても、発表の時は客はもう出口に殺到していて、発表と同時にどよめいたというんだから……、ちょっとね。
ちょっと違うんじゃあないの
昭和天皇のA級戦犯靖国合祀に関する感想のメモが公開されて、
だから、首相は参拝するべきじゃないだの、
早く分祀すべきだのと、
かまびすしいのだが、
馬鹿げた意見がまかりとおる
様を見ていると、あきれてモノも言えなくなりそうなので、今のうちに言っておくことにする。
最も多いのが、
「昭和天皇の平和を愛するお心に触れて、立派なそのお人柄に
改めて感動した」
的なもの。こうした、
軸足のぶれた意見
というか感想は、おそらくは日頃主語のない言語を垂れ流すように使っているから生じるのだろうが、
必要なのは、
メモの公開によって生じる問題について客観的にとらえること
なのだが、事の是非を論じることなく、すぐ天皇へのシンパシーに流れる感情の在り方は、
ほとんど韓流ドラマへの共感と同じようなもの
なのだろう。あるいは、
戦後ミンシュシュギの偉大なる収穫
と言うべきか……。
天皇が公人であることは言を俟たない。だからといって、「私的」な意見をメモる者もメモる者だが、メモった本人が鬼籍に入ってから発表する者も発表する者だ。
漢の元帝は愚帝だったが、己の不手際から絶世の美女王昭君を匈奴に渡さざるをえなくなっても、くれると言った以上、前言を翻すことはなかった。
綸言汗のごとし
と言う。
ご自身の意見が公になるということがどういうことかを知り抜いていらしたからこそ、一切政治発言をなさらなかった昭和天皇の意志を、これは踏みにじる行為だ。
実はこんなに平和を愛していらしたことを伝えたかったからと言うなら、そういうのを、
贔屓の引き倒し
という。
事の本質を見ない、相手(昭和天皇)の真意も顧みない、私ってお利口でしょう的な実にくだらない行為だ。
もっとも、この時期だから、誰かの政治的意図があったことは明らかだが、だからこそ、お涙ちょうだいの感情に流された意見の氾濫は、意図を持ってやった奴の思うつぼであろう。
小泉衆愚政治の末期症状だ。
そのうちどっかの国みたいに
国の指導者には映画俳優
がなるのかなあ。
だから、首相は参拝するべきじゃないだの、
早く分祀すべきだのと、
かまびすしいのだが、
馬鹿げた意見がまかりとおる
様を見ていると、あきれてモノも言えなくなりそうなので、今のうちに言っておくことにする。
最も多いのが、
「昭和天皇の平和を愛するお心に触れて、立派なそのお人柄に
改めて感動した」
的なもの。こうした、
軸足のぶれた意見
というか感想は、おそらくは日頃主語のない言語を垂れ流すように使っているから生じるのだろうが、
必要なのは、
メモの公開によって生じる問題について客観的にとらえること
なのだが、事の是非を論じることなく、すぐ天皇へのシンパシーに流れる感情の在り方は、
ほとんど韓流ドラマへの共感と同じようなもの
なのだろう。あるいは、
戦後ミンシュシュギの偉大なる収穫
と言うべきか……。
天皇が公人であることは言を俟たない。だからといって、「私的」な意見をメモる者もメモる者だが、メモった本人が鬼籍に入ってから発表する者も発表する者だ。
漢の元帝は愚帝だったが、己の不手際から絶世の美女王昭君を匈奴に渡さざるをえなくなっても、くれると言った以上、前言を翻すことはなかった。
綸言汗のごとし
と言う。
ご自身の意見が公になるということがどういうことかを知り抜いていらしたからこそ、一切政治発言をなさらなかった昭和天皇の意志を、これは踏みにじる行為だ。
実はこんなに平和を愛していらしたことを伝えたかったからと言うなら、そういうのを、
贔屓の引き倒し
という。
事の本質を見ない、相手(昭和天皇)の真意も顧みない、私ってお利口でしょう的な実にくだらない行為だ。
もっとも、この時期だから、誰かの政治的意図があったことは明らかだが、だからこそ、お涙ちょうだいの感情に流された意見の氾濫は、意図を持ってやった奴の思うつぼであろう。
小泉衆愚政治の末期症状だ。
そのうちどっかの国みたいに
国の指導者には映画俳優
がなるのかなあ。
Windows Modeにはがっかりだぁ
数年に一度あるかないかのがっかりがWindows Modeだ。
先日、ったってもう一月ほど前だが、本屋にその月の月刊誌の品定めに行った。
まず「ドットPC」をぱらぱらとめくり、次に「PC21」を手に取った。さて、本命の「PC MODE」を手に取ろうとしたら………ない!
どこにも出ていない!!
どうしたんだよ全く、と思いつつもその日はあきらめて、次の日、別な本屋。
やっぱりない!
ひょっとして、よくあることとはいえ、……廃刊?!
うちに帰って先月号を引っ張り出し、隅から隅までよおく目を通すと、
「WindowsStart」と「PC MODE」統合のご案内
の文字が……。
翌日本屋で、「WindowsMODE」なる新雑誌を見てみた。その前に、このネーミングどうよ?
でも、なんと言ってもその中身。
これじゃあ、だれも買わんでしょ!
だいたい、私の記憶に、WindowsStartがない。
おそらく立ち読みでぱらぱらめくったことは(ほとんどのPC関係の雑誌をそうしてるのだから)
あるはず。
にもかかわらず、記憶にない……ということは、
私の求める内容とカテゴリーが全く違うということにほかならないわけだ。
だから、新雑誌の内容がWindowsStartに近いのかそうでないのかは、私にはわからない。
ただ、PC MODEの読者は もう買わない
だろうということは言える。これで、WindowsStartとも似てなかったら、
両方の読者失うだろうなあ。
こんな、中途半端なことしないで、苦しいんだったらどっちか廃刊にするべき。
そして、残すのはPC MODE にするべきだった。
PC MODEは、内容的には(付録には閉口だったが)、ドットPCより、洗練されていたと思う。絞り込んだ特集の組み方がよくできていた。そして、これは推測だが、Windows Modeの内容を喜ぶ読者の絶対数は、明らかにPC MODEを読む層より少ないはずだ。
(一般性が無いもの。見た目のウキウキが無いもの。)
それに、この手の読者層ははDosVマガジンその他にがっちり握られてて、ややPCMODE層にも媚を売るような、
こんな軟弱な雑誌、
馬鹿にして読まんでしょう。
虻蜂取らずとはこのことかいな。
毎日コミュニケーションズ様、私のPCMODEをかえしてくれぇ!
先日、ったってもう一月ほど前だが、本屋にその月の月刊誌の品定めに行った。
まず「ドットPC」をぱらぱらとめくり、次に「PC21」を手に取った。さて、本命の「PC MODE」を手に取ろうとしたら………ない!
どこにも出ていない!!
どうしたんだよ全く、と思いつつもその日はあきらめて、次の日、別な本屋。
やっぱりない!
ひょっとして、よくあることとはいえ、……廃刊?!
うちに帰って先月号を引っ張り出し、隅から隅までよおく目を通すと、
「WindowsStart」と「PC MODE」統合のご案内
の文字が……。
翌日本屋で、「WindowsMODE」なる新雑誌を見てみた。その前に、このネーミングどうよ?
でも、なんと言ってもその中身。
これじゃあ、だれも買わんでしょ!
だいたい、私の記憶に、WindowsStartがない。
おそらく立ち読みでぱらぱらめくったことは(ほとんどのPC関係の雑誌をそうしてるのだから)
あるはず。
にもかかわらず、記憶にない……ということは、
私の求める内容とカテゴリーが全く違うということにほかならないわけだ。
だから、新雑誌の内容がWindowsStartに近いのかそうでないのかは、私にはわからない。
ただ、PC MODEの読者は もう買わない
だろうということは言える。これで、WindowsStartとも似てなかったら、
両方の読者失うだろうなあ。
こんな、中途半端なことしないで、苦しいんだったらどっちか廃刊にするべき。
そして、残すのはPC MODE にするべきだった。
PC MODEは、内容的には(付録には閉口だったが)、ドットPCより、洗練されていたと思う。絞り込んだ特集の組み方がよくできていた。そして、これは推測だが、Windows Modeの内容を喜ぶ読者の絶対数は、明らかにPC MODEを読む層より少ないはずだ。
(一般性が無いもの。見た目のウキウキが無いもの。)
それに、この手の読者層ははDosVマガジンその他にがっちり握られてて、ややPCMODE層にも媚を売るような、
こんな軟弱な雑誌、
馬鹿にして読まんでしょう。
虻蜂取らずとはこのことかいな。
毎日コミュニケーションズ様、私のPCMODEをかえしてくれぇ!
アウトカーストとしてのアスリート
一挙公開です!
1
アスリート、それもプロのスポーツ選手はすべてアウトカーストである。
福井日銀総裁が、たかが一千万かそこら儲けたのをマスコミは騒ぐが、確かに福井氏の言うとおり
「はした金」である。
それは、本来マスコミが問題とするのに妥当な金額の基準に比べてということである。それを
「はした金とはなんだ」
というのは、揚げ足取りであり、イチャモンというものだ。
チンピラの言動である。
マスコミがそのような行為に走るのは世論が後ろ盾になっているという浅はかな思い込みがあるからである。では、世論はなぜ愚かなマスコミの言い草を後押しするのか。それは、自分におこぼれがないからである。妬みとやっかみというやつだ。
自分より恵まれているやつは、何とかして引き摺り下ろしたいと思っている、実は世論という名の衆愚だからだ。
その衆愚が、なぜ年に数億も数十億も稼ぐゲイノウジンやスポーツ選手を攻撃しないのか?
能力で稼いでいるから?
少なくとも今テレビに出ているゲイノウジンとやらに能力があるとはあまり思えないのは衆目の一致するところだろう。スポーツ選手は確かに能力は高い。しかし、能力は高かったのに消えていったり、プロにはなれなかったりした者は五万といる。では、今をときめくげゲイノウジンやスポーツ選手にはあって、消えていった才能ある者たちに欠けていたものはなんだろう。運ももちろんそのひとつだろうが、それだけではない。曰く、「あの子は幼いときからどこか違っていた」、曰く「あの人にはオーラがあった」、名を成した者たちには幾つもの伝説がくっついている。
何だかわからないが、自分たちにない何か、
その何かが彼らを彼らたらしめていると皆知っている。その何かを持った者たちだけが選ばれ、そして
贄(にえ)
となるのである。
2
角力は、その端緒において神に奉納するために催された。その他、神楽、猿楽、今に残るもの残らぬもの、世の興行・催しで凡そ神への供物でなかったものはない。
そしてそれを演じる者たちもまた神に近い者であった。
神に近い者は、神に見出された者であり、
形か、あるいは精神が異形の者たちだった。
異形でないものは仮面を付けて異形を装った。 異形の者は、表の社会では忌まれ、疎まれる。神に最も近い者は、表の社会では異形のアウトカーストだったのである。
ローマのグラディエイターたちもまた、強制的に(その筋肉のみに頼らざるをえない点において)異形の剣奴として扱われた。
ローマ市民は、強い闘剣士がライオンをも倒す姿に酔いしれ、ライオンに食われる様を見てまた興奮した。剣士の勇気こそが神への供物であり、神に称賛されるものだった。
アテネの競技場で裸で走った者たちの死を賭した気力もまた、神への供物であったろう。
ローマのスパルタクスも、アテネの勇者も、インカやアステカで生贄となった娘たちもその供物が勇気であるか首であるかの違いはあっても、
神に捧げられたことに違いはないのである。
神への供物という観念は失われても、人々の心は常に潜在的に神への供物としての「贄(にえ)」を求める。そして、社会は、見出した数少ない「贄(にえ)」に対しては寛大である。いくら稼ごうが、どんな浮名を流そうが、騒ぎはしてもその存在の価値は認め続ける。
役割を果たしてくれる限りは…。
そのことを、おそらくは体で知っているのが、現代の日本では中田であり、王貞治であり、イチローなのだ。
路地から這い上がって世界的名声を得たジーコもまた、
賞賛される者に向けられる聖性への畏怖と卑性への蔑み
を二つながら知っているに違いない。そして、そこで人々の賞賛を得るには、彼が言うように
「フィジカル」な面を鍛えてコートに立つしか道はないのだ。
だから、彼は管理しなかった。
日本の監督としては認識不足だった。しかし、戦う者の本質は知り抜いていた人だと思う。
3
王貞治氏が胃癌だという。
自ら会見を開き、社会的対処を優先するこの生き方はどうだ。
その姓が示すように、彼は中華民国(台湾)籍の人である。かつて、彼が早稲田実業高校野球部にいたとき、春の甲子園優勝投手でありながら、その籍ゆえに国体に出られないという、実に、実に、ばかげた出来事があった。
また、かつて彼の属した讀賣ジャイアンツなるプロ野球チームが日本シリーズ9連勝を達成したころ、関係者もファンも
「純血主義(外人選手をチームに入れないことを<誇って>言った言葉)」
などということを平気で言っていた。
そこに、「中華民国籍」の王貞治はいたのだ。
彼はまさに自らを贄として差し出すことで、人としての屈辱に耐えていたに違いない。そこに王貞治の「聖性」がある。
後に、江川が入団したときに王が極端に嫌ったことは有名な話である。それもそのはず、
「卑しさ」しか持たない人間がどうして、マウンドで人々の賞賛を受けられよう。
江川の卑しさは、近年、選手のストライキの際に経営者に媚を売る発言をした(そして、不利と見るや、すぐに口をつぐんだ)ことからも明らかである。
社会がその構造を維持するために、
当人にとっては不当な形で与えた「卑性」と、
性向としての「卑しさ」
とは全く異なるものであり、アウトカーストの成立基盤としての聖性と共存する「卑性」とは、もちろん前者である。
王貞治が、一度だけ全日本チームの監督を引き受けたのも、彼が日本で監督という仕事を続けていく上での義務として、
アウトカーストとしての立場を維持するために引き受けた
と見るべきであろう。こう書くと、功利的な感じを与えるかもしれないが、そうではない。
ここでもまた、彼は贄となったということである。
それを、
責任感
と言うのも、
義侠(おとこぎ)
と言うのももちろん可能である。
4
中田が引退するという。彼の、やや独り相撲的なプレイの裏にはそういう決意が秘められていたわけだ。
ジダンの退場騒ぎは母と姉への侮辱が原因だという。
二つの出来事は、WCupの場で選手たちが誰のために戦っているのかを考えさせる。
選手は贄であると述べたし、
贄であるためには、選手には聖性と同時に卑性もまた必要であることも述べた。
では、路地で裸足でボールを蹴っていた少年が国の代表になったとき、彼の卑性はその出自に求められるのか?
そうではない。彼らが成り上がっていること、まさにそのことの中に卑性は潜んでいるのだ。
彼らの今は何に支えられているのか、いうまでもなく、一般人をはるかに越えるその収入によってだ。
彼らは見世物となることで、見た者の支払った金で今を維持している。成り上がったことによって得た彼らの地位は、それを支持するものによって支えられている。その意味で、彼らは体を張っている。政治家が裏金を貰って肥え太るのとは違うのだ。
だから、人は彼らの収入に文句は言わない。言わないが、自分がなろうとも思わない。才能のあるなしは、これとはまた別の問題となる。
そして、彼らの日常は祭られ、優秀な者はより大きな神事の贄として大事にされる。
では、彼ら自身はどうなのか? 彼らもまた、彼らの属する共同体の贄、いやシンボルとして戦うことを誇りに思ってはいるであろう。応援する者もされる者も一体となることで、ある種のアイデンティティーを持てるからだ。
では、彼らが贄となる共同体とは何か。それは、
実は迷妄に過ぎない。
贄を捧げる者と、贄として捧げられる者とは、ともに神に祝福されてこそ共同できる。
神に見向きもされなかったとき、贄の存在価値はなくなる。
ブラジルのサポーターたちが、ロナウジーニョの像を破壊し、選手が帰国したとき、空港に集まって罵声を浴びせたのは、そういう理由による。
だから、選手は自らに卑性の烙印を押した者たちの向こうにいる、真に自分を支えてくれる者のために戦っているはずだ。自分を支えてくれる者たちとは誰なのか。
ジダンにとっては、それはマルセイユの移民たちであり、さらにその輪を絞り込めば、最後に残るのが、母であり姉であったということだ。
マテラッツィが悪いのか、ジダンが悪いのか、世間は決めたがるが、マテラッツィにはマテラッツィなりの、ジダンにはジダンなりの背負うものがあってのことであり、それはFIFAが裁けることではない。ルールを侵したのはジダンであり、彼はペナルティを受けた。事はそれで終わっている。
中田は、「人生は旅である」と言う。この一言で日本人はあるイメージを共有してしまう。家康が言い、芭蕉が言い、この国の文化の中で育った者に通底している考え方である。
彼は、贄としての役割を終えたいと言ったのだ。現代の日本でサッカー選手になることは、ジダンやロナウジーニョがサッカー選手になることとは、似て非なるものである。中田はこの荷はここで降ろして、また別な道をたどりたいと言ったのだ。
我々はそれをわかってしまうから、罵倒もしないし、責めもしない。
中田に限らず、どの選手もにとっても、真に自分を支えてくれた者の輪を絞り込んでも、その輪の中に相当数の「日本人」が残ってしまうだろう。
だから、我々は負けて帰った彼らを「温かく」迎えたのだ。
それがいいのか、悪いのかわからないが、
これだけは言える。
だから、我々は戦いには向かないのだと。
1
アスリート、それもプロのスポーツ選手はすべてアウトカーストである。
福井日銀総裁が、たかが一千万かそこら儲けたのをマスコミは騒ぐが、確かに福井氏の言うとおり
「はした金」である。
それは、本来マスコミが問題とするのに妥当な金額の基準に比べてということである。それを
「はした金とはなんだ」
というのは、揚げ足取りであり、イチャモンというものだ。
チンピラの言動である。
マスコミがそのような行為に走るのは世論が後ろ盾になっているという浅はかな思い込みがあるからである。では、世論はなぜ愚かなマスコミの言い草を後押しするのか。それは、自分におこぼれがないからである。妬みとやっかみというやつだ。
自分より恵まれているやつは、何とかして引き摺り下ろしたいと思っている、実は世論という名の衆愚だからだ。
その衆愚が、なぜ年に数億も数十億も稼ぐゲイノウジンやスポーツ選手を攻撃しないのか?
能力で稼いでいるから?
少なくとも今テレビに出ているゲイノウジンとやらに能力があるとはあまり思えないのは衆目の一致するところだろう。スポーツ選手は確かに能力は高い。しかし、能力は高かったのに消えていったり、プロにはなれなかったりした者は五万といる。では、今をときめくげゲイノウジンやスポーツ選手にはあって、消えていった才能ある者たちに欠けていたものはなんだろう。運ももちろんそのひとつだろうが、それだけではない。曰く、「あの子は幼いときからどこか違っていた」、曰く「あの人にはオーラがあった」、名を成した者たちには幾つもの伝説がくっついている。
何だかわからないが、自分たちにない何か、
その何かが彼らを彼らたらしめていると皆知っている。その何かを持った者たちだけが選ばれ、そして
贄(にえ)
となるのである。
2
角力は、その端緒において神に奉納するために催された。その他、神楽、猿楽、今に残るもの残らぬもの、世の興行・催しで凡そ神への供物でなかったものはない。
そしてそれを演じる者たちもまた神に近い者であった。
神に近い者は、神に見出された者であり、
形か、あるいは精神が異形の者たちだった。
異形でないものは仮面を付けて異形を装った。 異形の者は、表の社会では忌まれ、疎まれる。神に最も近い者は、表の社会では異形のアウトカーストだったのである。
ローマのグラディエイターたちもまた、強制的に(その筋肉のみに頼らざるをえない点において)異形の剣奴として扱われた。
ローマ市民は、強い闘剣士がライオンをも倒す姿に酔いしれ、ライオンに食われる様を見てまた興奮した。剣士の勇気こそが神への供物であり、神に称賛されるものだった。
アテネの競技場で裸で走った者たちの死を賭した気力もまた、神への供物であったろう。
ローマのスパルタクスも、アテネの勇者も、インカやアステカで生贄となった娘たちもその供物が勇気であるか首であるかの違いはあっても、
神に捧げられたことに違いはないのである。
神への供物という観念は失われても、人々の心は常に潜在的に神への供物としての「贄(にえ)」を求める。そして、社会は、見出した数少ない「贄(にえ)」に対しては寛大である。いくら稼ごうが、どんな浮名を流そうが、騒ぎはしてもその存在の価値は認め続ける。
役割を果たしてくれる限りは…。
そのことを、おそらくは体で知っているのが、現代の日本では中田であり、王貞治であり、イチローなのだ。
路地から這い上がって世界的名声を得たジーコもまた、
賞賛される者に向けられる聖性への畏怖と卑性への蔑み
を二つながら知っているに違いない。そして、そこで人々の賞賛を得るには、彼が言うように
「フィジカル」な面を鍛えてコートに立つしか道はないのだ。
だから、彼は管理しなかった。
日本の監督としては認識不足だった。しかし、戦う者の本質は知り抜いていた人だと思う。
3
王貞治氏が胃癌だという。
自ら会見を開き、社会的対処を優先するこの生き方はどうだ。
その姓が示すように、彼は中華民国(台湾)籍の人である。かつて、彼が早稲田実業高校野球部にいたとき、春の甲子園優勝投手でありながら、その籍ゆえに国体に出られないという、実に、実に、ばかげた出来事があった。
また、かつて彼の属した讀賣ジャイアンツなるプロ野球チームが日本シリーズ9連勝を達成したころ、関係者もファンも
「純血主義(外人選手をチームに入れないことを<誇って>言った言葉)」
などということを平気で言っていた。
そこに、「中華民国籍」の王貞治はいたのだ。
彼はまさに自らを贄として差し出すことで、人としての屈辱に耐えていたに違いない。そこに王貞治の「聖性」がある。
後に、江川が入団したときに王が極端に嫌ったことは有名な話である。それもそのはず、
「卑しさ」しか持たない人間がどうして、マウンドで人々の賞賛を受けられよう。
江川の卑しさは、近年、選手のストライキの際に経営者に媚を売る発言をした(そして、不利と見るや、すぐに口をつぐんだ)ことからも明らかである。
社会がその構造を維持するために、
当人にとっては不当な形で与えた「卑性」と、
性向としての「卑しさ」
とは全く異なるものであり、アウトカーストの成立基盤としての聖性と共存する「卑性」とは、もちろん前者である。
王貞治が、一度だけ全日本チームの監督を引き受けたのも、彼が日本で監督という仕事を続けていく上での義務として、
アウトカーストとしての立場を維持するために引き受けた
と見るべきであろう。こう書くと、功利的な感じを与えるかもしれないが、そうではない。
ここでもまた、彼は贄となったということである。
それを、
責任感
と言うのも、
義侠(おとこぎ)
と言うのももちろん可能である。
4
中田が引退するという。彼の、やや独り相撲的なプレイの裏にはそういう決意が秘められていたわけだ。
ジダンの退場騒ぎは母と姉への侮辱が原因だという。
二つの出来事は、WCupの場で選手たちが誰のために戦っているのかを考えさせる。
選手は贄であると述べたし、
贄であるためには、選手には聖性と同時に卑性もまた必要であることも述べた。
では、路地で裸足でボールを蹴っていた少年が国の代表になったとき、彼の卑性はその出自に求められるのか?
そうではない。彼らが成り上がっていること、まさにそのことの中に卑性は潜んでいるのだ。
彼らの今は何に支えられているのか、いうまでもなく、一般人をはるかに越えるその収入によってだ。
彼らは見世物となることで、見た者の支払った金で今を維持している。成り上がったことによって得た彼らの地位は、それを支持するものによって支えられている。その意味で、彼らは体を張っている。政治家が裏金を貰って肥え太るのとは違うのだ。
だから、人は彼らの収入に文句は言わない。言わないが、自分がなろうとも思わない。才能のあるなしは、これとはまた別の問題となる。
そして、彼らの日常は祭られ、優秀な者はより大きな神事の贄として大事にされる。
では、彼ら自身はどうなのか? 彼らもまた、彼らの属する共同体の贄、いやシンボルとして戦うことを誇りに思ってはいるであろう。応援する者もされる者も一体となることで、ある種のアイデンティティーを持てるからだ。
では、彼らが贄となる共同体とは何か。それは、
実は迷妄に過ぎない。
贄を捧げる者と、贄として捧げられる者とは、ともに神に祝福されてこそ共同できる。
神に見向きもされなかったとき、贄の存在価値はなくなる。
ブラジルのサポーターたちが、ロナウジーニョの像を破壊し、選手が帰国したとき、空港に集まって罵声を浴びせたのは、そういう理由による。
だから、選手は自らに卑性の烙印を押した者たちの向こうにいる、真に自分を支えてくれる者のために戦っているはずだ。自分を支えてくれる者たちとは誰なのか。
ジダンにとっては、それはマルセイユの移民たちであり、さらにその輪を絞り込めば、最後に残るのが、母であり姉であったということだ。
マテラッツィが悪いのか、ジダンが悪いのか、世間は決めたがるが、マテラッツィにはマテラッツィなりの、ジダンにはジダンなりの背負うものがあってのことであり、それはFIFAが裁けることではない。ルールを侵したのはジダンであり、彼はペナルティを受けた。事はそれで終わっている。
中田は、「人生は旅である」と言う。この一言で日本人はあるイメージを共有してしまう。家康が言い、芭蕉が言い、この国の文化の中で育った者に通底している考え方である。
彼は、贄としての役割を終えたいと言ったのだ。現代の日本でサッカー選手になることは、ジダンやロナウジーニョがサッカー選手になることとは、似て非なるものである。中田はこの荷はここで降ろして、また別な道をたどりたいと言ったのだ。
我々はそれをわかってしまうから、罵倒もしないし、責めもしない。
中田に限らず、どの選手もにとっても、真に自分を支えてくれた者の輪を絞り込んでも、その輪の中に相当数の「日本人」が残ってしまうだろう。
だから、我々は負けて帰った彼らを「温かく」迎えたのだ。
それがいいのか、悪いのかわからないが、
これだけは言える。
だから、我々は戦いには向かないのだと。
中田の涙について
中田の涙についての日記です。
奇蹟の字の躍る新聞、スポーツ新聞の見出しを見ていて、日本のマスコミの無責任さに腹が立ったので書くわけですが、勝敗は人事の及ぶところで決まるわけですから、結果は奇蹟ではないのです。
クロアチア戦の後、どっかのテレビで、有名な世界的サッカー指導者のインタビューを流していました(サッカーに詳しくないもので、その人がだれかわかりません。)。
その人は、「日本はよくやった」とほめた後で、
「川口には失望した」
と言ったのです。
PKを止めた川口に失望した理由は何かというと、ゲーム中に、なんでもない味方のパスが川口の前でイレギュラーバウンドしたために、ボールを後逸したことが原因でした。幸いボールはコートの外に出ましたが、もしあれがゴールになったらと、みんなひやっとしたはずです。その人は、イレギュラーバウンドはコートの中ではイレギュラーな出来事ではないという認識が川口になかったと言いたかったのでしょう。
ひょっとして、ブラジル戦で奇蹟に見える出来事が起こったとすれば、そうしたイレギュラーな出来事がからんだはずです。しかし、ブラジルの選手はイレギュラーな出来事がいつ起こっても対処できるように、スキルを積み上げてきているわけだから、そんなことは起こらなかったわけです。また、もし正当なゴールを奪って日本が勝ったとしたら、それは奇蹟でもなんでもなく日本の実力で勝ったということになります。
だから、奇蹟は起こらないし、起こらなかった!
残念ながら、今の日本ではブラジルには勝てない。売らんかなでマスコミが奇蹟などという言葉を濫用するのは、相手国の選手にも、日本の選手にも失礼なわけです。
中田は、ブラジルに負けることは、だから、初めから知っていたと思う。中田が泣いたのは負けたからではない。涙のわけを最もわかったのは、おそらくジーコだったろう。そして、唐突なことを言えば、イチローと王貞治だったはずである。と、文体が変わってしまいましたが、ここからが長くなりそうなので、続きは後日。
奇蹟の字の躍る新聞、スポーツ新聞の見出しを見ていて、日本のマスコミの無責任さに腹が立ったので書くわけですが、勝敗は人事の及ぶところで決まるわけですから、結果は奇蹟ではないのです。
クロアチア戦の後、どっかのテレビで、有名な世界的サッカー指導者のインタビューを流していました(サッカーに詳しくないもので、その人がだれかわかりません。)。
その人は、「日本はよくやった」とほめた後で、
「川口には失望した」
と言ったのです。
PKを止めた川口に失望した理由は何かというと、ゲーム中に、なんでもない味方のパスが川口の前でイレギュラーバウンドしたために、ボールを後逸したことが原因でした。幸いボールはコートの外に出ましたが、もしあれがゴールになったらと、みんなひやっとしたはずです。その人は、イレギュラーバウンドはコートの中ではイレギュラーな出来事ではないという認識が川口になかったと言いたかったのでしょう。
ひょっとして、ブラジル戦で奇蹟に見える出来事が起こったとすれば、そうしたイレギュラーな出来事がからんだはずです。しかし、ブラジルの選手はイレギュラーな出来事がいつ起こっても対処できるように、スキルを積み上げてきているわけだから、そんなことは起こらなかったわけです。また、もし正当なゴールを奪って日本が勝ったとしたら、それは奇蹟でもなんでもなく日本の実力で勝ったということになります。
だから、奇蹟は起こらないし、起こらなかった!
残念ながら、今の日本ではブラジルには勝てない。売らんかなでマスコミが奇蹟などという言葉を濫用するのは、相手国の選手にも、日本の選手にも失礼なわけです。
中田は、ブラジルに負けることは、だから、初めから知っていたと思う。中田が泣いたのは負けたからではない。涙のわけを最もわかったのは、おそらくジーコだったろう。そして、唐突なことを言えば、イチローと王貞治だったはずである。と、文体が変わってしまいましたが、ここからが長くなりそうなので、続きは後日。



